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2011/07/14

2011年7月8日 父 他界

7月8日、その日の夕方に突然の電話で知らされた。
昨年の3月頃に見つかった肺癌とその転移によるものだった。
昭和22年生まれだから、64歳ということになる。
 その夜に諸岡から北九州までクルマで送ってもらい、23:40発のスカイマークにて羽田へ向かう。 羽田到着は25:10。 タクシーで蒲田まででて、予約しておいたビジネスホテルに泊まる。翌朝、JR蒲田駅から自宅へ。
 自宅からは単車で実家のある愛川町へ行くと、既に親戚の叔母さんたちが揃っていた。
ふとんに寝ているやせ細ってしまった父の姿を見るとお疲れ様という気持ちと、一度も心を割って話ができなかったことを残念に思う。

父は親父という存在であって、実の父親ではない。
はじめて出会ったのは、僕が小学校1年の頃。 当時の状況を有り体に言えば、母が浮気をして離婚して、俺を連れて親父のもとに行った。といういことだろうか。

俺的には、真っ直ぐだった筈の自分の道をねじ曲げた相手。 しかし、他人が想像するよりも楽しい(いろいろあって)幼少期を送るきっかけになった人でもある。

離婚騒動の時、俺は実父方の親戚の家を巡る事となり、昨日まで親切だった親戚の豹変ぶりを目にすることともなる。そこでの言動は今でもハッキリ覚えているし、決して忘れてはいけないこと。 自分の心のかたちを歪めてしまったのは、親の離婚でも再婚でもなく、この親戚の仕打ちだった。
そんな親戚巡りから解放され、母親と親父の家に行くことに決まり、小学校1年の終わりに転向、そして3ヶ月でまた転向。 小学校5年で転向。 
中学1年の夏休み前、親父の仕事が上手くいかなくなり、夜逃げ同様に千葉から神奈川へ転向。 楽しい中学生活の筈だったんだけどな。 授業中に突然電話で呼び出されて帰宅してそれでさようなら。 
友達にお別れも言えない状況だった…着の身着のままの道中、クルマの後部シートで聞いた中島みゆきの「わかれうた」はなんとも切ないものだったのを覚えてる。

 そして神奈川に流れてつき、さすがに中学にもなれば意見も言うし反抗的にもなってくるし、もう「一日でもいいから早く家を出たい」という気持ちが強くなってくる。
これって、俺はここにいたら迷惑なんだっていう独りよがりの馬鹿な考えだったんだよけど、若い時なんて気がつくわけもない。
だから、高校に入るときも、その先の大学進学なんて(これ以上親に世話になりたくない)考えは早々に捨てたし、だから普通高校なんてハナッから考えにはなく、コンピュータ関係の教育が受けられる学校にしたんだ。

そんな親父だけど、向こうも気にして俺と接していたようだし、他人が思うほど悪い生活じゃなかったし、いやむしろ物質的には裕福でもあった訳でね。
大人になった今振り返ると、いろいろな良い悪いも経験をさせてくれたのはとても感謝している。

ゴルフが好きでクルマが好きで、晩年は酒は飲めないようになったようだけど、タバコは最後まで吸ってたな。

親父の人生ってのは楽しかったのだろうか? 自分の子供がいるわけでもなく、仕事は真面目にすごく評判のいい大工だったけど…
母が病気になった時にも看病してくれたし、その母が治って退院した翌年に自分の病気が発覚してな。 己を犠牲にして他人を幸せにした(俺を含め)事をあっちでも評価されるといいと思うよ。

今度会ったら、生前には腹を割って話せなかったこと、お互い気の済むまで話明かしたいと思うよ。悪いけどまだまだ当分先になりそうだけどね。あ、あと、あなたには孫娘がひとりいるんだからさ、これからは常に見守ってやってださいな。
今までどうもありがとう。さようなら…

1 件のコメント:

  1. アウトビアンキ2011年7月19日 0:10

    ご冥福をお祈りいたします。
    いろんな意味で波乱万丈な人生を送ってきたんだね。
    それらを教訓とし、幸せになってくださいまし。

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